2010年8月17日火曜日

chị Đẹp


 8月10日夜、前日に予約したホーチミン行きの夜行バスに乗るため、今住んでいる施設の門が閉まる9時前に外に出る。門のすぐ前を横切るのは国道1号線。色々な会社の長距離バスが、猛スピードで走りすぎていく。バス会社の女性によれば、私の予約したバスもこの道を通るため、門を出てすぐの道沿いで、私を拾ってくれるとのことだった。しかし、門の外に出て程なくして、携帯電話にその女性と思しき声の人からの着信。私を拾うことができなくなったと言っているようだった。その理由も説明しているようだが、語学力が足りず、聞き取ることができない。バスに乗りたいのなら、バスターミナルまで来てくれと言われたのは分かったが、困った事にこの辺りは、夜の9時にはバス、タクシー、バイクタクシーといった、バスターミナルのある市内へ行くための全ての交通手段がなくなっている。バスターミナルに行く事はできないと電話越しにどんなに訴えても、こちらの状況を察してくれる様子はなく、むしろ私の拙いベトナム語にいらいらしているようだった。さすがに困って、道の向かい側で雑談していた友人数人に声をかけ、電話を代わってもらった。しかしそれでもあちらの対応は変わらない。困り果てた私に一人の友人が、“もう、ホーチミンに行ければ、どのバスでもいいよね?”と一言。友人が何を考えてるのか今ひとつわからないまま、うんうんと頷いてしまった。友人は早速、目の前の道を走りすぎていく高速バスにむけて手をあげて、止まれというような動きをとり始めた。この辺りの交通機関は、全て、手を挙げれば止まる。でもまさか高速バスまで。と頭でぐるぐる考えているうちに、あっさりと、いとも簡単に高速バスは止まってくれた。友人が空席はあるかときくと、あるとの返事。長くは停車してられない様子だったので、再度行き先を確認しつつ、慌ててそのバスに乗り込んだ。友人はバスの扉の前で到着したら必ず連絡して!と大きな声でいいながら、私を見送ってくれた。

 バスに乗り込んで数分後に料金の回収。9万ドンと、最初に予約したバスよりも3万ドンほど安かった。車内は寒いくらいに冷房が効いていて、夜の12時を過ぎても音楽がなりやまず、いつまでも電気がついていた。そのまま到着まで、ほぼ一睡もできないまま、乗車前の出来事を思い出してぼんやりしたり、助けてくれた友人にSMSを打ったり、窓の外に目をやったり、冷房の風の吹き出し口から逃げるように体勢を変えたりしながら過ごした。

 朝5時、ようやくホーチミンのバスターミナルに到着。降車しだした乗客の中に、近所に住んでいる両足の不自由な女性がいた。男の子ひとりを連れて、2人で私と同じバスに乗っていたようだった。彼女は両足をM字に曲げた恰好のまま、細い足にわずかについた筋肉と、お尻の筋肉を使うようにしながら、中央の通路を器用に歩いてバス前方に位置する私の席の横までくると、こちらの存在に気がつき、笑顔で声をかけてくれた。近所に住んでいることは知っていて、とても気になる存在だったが、話をしたことはなかったので、彼女が私の存在に気がついてくれた事がとてもうれしかった。

 バスから降りて、すぐ目の前にあったカフェで少し休憩。カフェのお姉さんと話して、街の中心まで行くための安価な交通手段を確認する。バスターミナル(Bến xe miền Tây)から街の中心までは2番のバスで行けるよと教えてもらい、2番のバスを探してまたバスターミナルをうろうろ。すると高速バスを降りてすぐ見失ってしまったさっきの親子を見つけたので声をかけてみる。彼女は男の子をホーチミンの学校に通わせるためにここに来たのだと、やや早口で、想像以上に低く力強い口調で言った。そしてそのまま、訴えかけるように、今の自分の状況を、力強い目線を私や周囲に向けながら話し始めた。今の私の語学力ではとても聞き取れない速さと、語彙の多さで、とても全てを理解することはできなかったが、

息子が学校に行く年齢になったということ
学費は国から出るが、学校に通わせている間の養育費は彼女が障がい者として国から受けている援助の金額では不十分であるということ
足が不自由でも、裁縫の仕事ならできる。でも求職したところで職を得るのはとても難しいということ

は聞き取れた。何度も聞き返してもっとじっくり話を聞きたかったが、目に涙を浮かべて話すその様子を見て、もう一度ゆっくり話してとは到底言えなかった。


 もし予定どおりに予約していたバスに乗っていたら、このわずかで貴重な時間はなかっただろう。おかげで彼女の名前と電話番号も知る事ができた。近いうちに、もう一度、彼女を訪ねてみたいと思う。